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那珂川黎明2019 国史跡指定記念特別講演会 安徳台遺跡 野良メモ


那珂川黎明2019 国史跡指定記念特別講演会 安徳台遺跡野良メモ

2019年11月2日(土)は、福岡県那珂川市のミリカローデン那珂川文化ホールで開催されました、「那珂川黎明2019 国史跡指定記念特別講演会 安徳台遺跡」に参加してきました。安徳台遺跡が国史跡に指定されたことを記念して、安徳台遺跡の考古学的価値について講演が3本なされ、その後は「安徳台遺跡の保存と活用について」のシンポジウムが行われました。 登壇された発表者の発表の概要と討論のメモを復習のついでに書きたいと存じます。


※野良のメモに基づくものであるため、発言内容や意図が違う場合がございます。その点、ご了承ください。


〇西谷正「弥生時代における安徳台の位置」

・平成31年2月26日付官報告示をもって、安徳台遺跡が正式に国指定史跡となる。「集落と墓域の変遷や階層分化の様相など、北部九州地域の弥生時代社会の様相を知る上で重要」(平成30年11月16日答申文書)

・安徳台遺跡は約10万㎡の台地上に広がる集落と墓域。竪穴住居は、全体の約18%の調査面積から、130軒見つかっている。2号住居(中期中葉)は直径14.5m程ある大規模竪穴住居で、青銅ヤリガンナ鋳型や滑石製勾玉、鉄片、石器未成品や破片が出土していることから、共同作業場・アトリエ・工房的な用途が考えられる。18号住居(中期後葉)は直径が10m程で、天河石小玉などが出土していることから、抜き出た人・村長・リーダーの住居と考えられる。 後期には住居は方形になる。

・2号甕棺墓=首長墓。南海産ゴホウラ製貝輪43個以上、ガラス勾玉、ガラス管玉、ガラス塞杆状製品(藤田等氏説では髪飾り)、鉄剣、鉄戈を出土しており、邑長墓にあたる。

・国の領域=律令1~3郡で1国。奴国→儺縣→那珂郡(→筑紫郡)。奴国の国邑・王都は比恵那珂遺跡。王墓域や工房域は須玖岡本遺跡群。奴国を構成している邑落群の中で、有力邑落が安徳台遺跡。

・明治27年に、安徳原田から広形銅矛12本(弥生後期)が発見され、その後所在があちこちに移るが、そのうちの1本が那珂川市の藤野家に所蔵されている。刃を互い違いに埋納されていた。これは共同祭祀のご神体だと考えられる。

・古墳時代前期には安徳大塚古墳が築かれる。それより古い古墳は、妙法寺2号墳という前方後方墳があり、そこからは三角縁神獣鏡が出土している。

・安徳台から日本の歴史-弥生時代が見えてくる。


〇木下尚子「腕輪と玉からみた安徳台-2号甕棺墓人の謎とき-」

・3つのなぜ。①なぜ右腕への腕輪の着装にこだわるのか。②なぜこれほど多くのゴホウラ腕輪をもつことができたのか。③なぜ安徳台のガラス勾玉は、王墓クラスの勾玉ではないのか。

・安徳台遺跡2号甕棺墓(中期後半)。被葬者は熟年(40~59歳)男性。棺外副葬の鉄剣と鉄戈。着装のゴホウラ腕輪は、右手に25点装着、右肩付近に積まれた状態で18点、右手のひら付近から3点。厚さ1cmほどの立岩型ゴホウラ腕輪。ガラス勾玉・管玉は頭部付近に集中。ガラスの塞杆状製品は頭部右側に並んで出土、耳につけたか。2号甕棺墓と隣の5号甕棺墓(女性)にはあまり時期差がなく、その後の8号甕棺墓、10号甕棺墓には時期差、副葬品格差が見られる。

・貝輪着装のルール、ゴホウラ:男性の右腕、イモガイ:女性の左または両腕。男性と右との関係は、弥生時代に新たに登場した価値観で、福岡平野に登場。女性と左または両腕の関係は、縄文時代から存在した習俗。イモガイ腕輪はゴホウラ腕輪に遅れて始まる。安徳台2号甕棺人の右肩上の18個の腕輪を威信財とみる川口陽子氏の見解がある。

・安徳台周辺地域の貝輪着装習俗。福岡の西新町では、男性の右腕に諸岡型ゴホウラ腕輪。イモガイ腕輪を着装した事例なし。筑紫野の道場山では、女性の両腕にタテ型イモガイ腕輪。隈・西小田では、男性の両腕(右が多い)に立岩型ゴホウラ腕輪、小児にタテ型(変形)イモガイ腕輪。佐賀の柚比梅坂では、小児にタテ型イモガイ腕輪。三津永田では男性の右腕(推定)に立岩型ゴホウラ腕輪が2例。吉野ヶ里では、女性の右腕にタテ型イモガイ腕輪、左腕にヨコ型イモガイ腕輪(右が多い)。筑後の栗山では、女性の両腕にヨコ型イモガイ腕輪、右腕にヨコ型イモガイ腕輪2例。亀の甲では、女性の両腕にヨコ型イモガイ腕輪。日田の吹上では、男性の右腕に立岩型ゴホウラ腕輪、女性の両腕にヨコ型イモガイ腕輪(左が多い)。筑豊の上り立では、男性の右腕に立岩型ゴホウラ腕輪。立岩堀田では男性の右腕に立岩型ゴホウラ腕輪。立岩グランドでは、女性の両腕にヨコ型イモガイ腕輪(右が多い)、男性の両腕に立岩型ゴホウラ腕輪(右が多い)。

・安徳台の腕輪習俗。福岡地域の伝統(男性のみの貝輪着装・右側)を受け継ぐ一方、立岩型貝輪を多数着装。

・中期後半、1人がはめる貝輪の数が中期中頃の最大数から増え、北部九州弥生人の消費数はこの時期最大になる(ゴホウラ・イモガイ)。薄い(厚1cm程)立岩型貝輪の登場、琉球列島から粗加工品の輸出、交易ルートが有明海ルートに変更(福岡地域を介さない)、脊振越え(坂本峠、現在の国道385号)ルートの開設によって粗加工品が佐賀から安徳台に直接流入→安徳台遺跡2号甕棺人がかなり多くの貝輪を持てた理由。

・安徳台2号甕棺人の勾玉は、大きさ1.5~1.9cmの緑色ガラスで、縄文勾玉の特徴を留める。ガラス素材は奴国から入手し、独自に製作か。しかし勾玉のイメージは縄文的⇔奴国王・伊都国王とはっきりした権力階層差。

・周辺地域との比較。安徳台:ゴホウラ腕輪、ガラス勾玉、ガラス管玉、ガラス塞杆、戈、剣。筑紫野:ゴホウラ腕輪、イモガイ腕輪、鏡、戈、剣。佐賀:ゴホウラ腕輪、イモガイ腕輪、鏡。筑後:イモガイ腕輪。日田:ゴホウラ腕輪、イモガイ腕輪、ヒスイ勾玉、ガラス勾玉、ガラス管玉、戈、剣。筑豊:ゴホウラ腕輪、イモガイ腕輪、鏡、戈、剣。→安徳台遺跡は日田との共通点が多く、同じレベルの地域的統率者。

・まとめ:安徳台人は、福岡地域と佐賀との直通路である脊振越えルートによって多数のゴホウラ粗加工品を入手。このルートの掌握が経済的利点。安徳台集落は基本的に奴国の伝統的祭祀を継承し、奴国下の有力集落。弥生時代中期後半の北部九州において、各地を代表するゴホウラ・イモガイ腕輪を持つ祭祀兼政治的権力者は、共通性も保持するが、実態は地域ごとで違う。奴国王・伊都国王と勾玉において格差がある。


〇禰冝田佳男「安徳台遺跡の考古学的価値」

・安徳台遺跡は、佐賀県神埼から坂本峠を越えて博多に至る南北道路と、大宰府から伊都に至る東西道路が交差する、交通の要衝。

・2号住居跡は、これまでの調査で最大の住居跡で、中央には方形の大形炉があり、床面は数か所が硬く焼け締っている。アトリエで、鉄器製作も行っていたかどうかは、鉄片の出土が鍵になる(事例:兵庫県五斗長垣内遺跡)。18号住居は、天河石製の玉と三稜鏃が出土している首長居館。34号住居も弥生時代後期の直径10m程の住居。→大型竪穴建物が存在し、その性格付けは集落構造を復元する上で重要。

・安徳台遺跡では中期前葉から鉄器の使用。鉄器は広域ネットワーク流通品で、石器の流通とは異なる。→それぞれの流通に関わった集団の関係を明らかにできれば、北部九州弥生社会の特質に迫れる重要な要素を持つ。

・奴国の社会構造を副葬品の観点から知ることができる。

・2号甕棺墓では棺外から鉄剣と鉄戈が出土。棺外副葬の意味「僻邪」。→当時の葬送祭祀や死生観を考えることができる。

・人骨から弥生人の親族関係を、ミトコンドリアDNA分析などから明らかにすることができる

・複眼的な視点で「整備」することや、これまでの調査の「再発掘」を含めた調査・研究が重要となってくる。


〇シンポジウム「安徳台遺跡の保存と活用について」

コーディネーター:磯村幸男、パネリスト:講演者、岩滿聡

磯村:講演内容に関して付け加えがあれば。

西谷:韓半島や中国大陸との交流を考える必要がある。18号住居出土の三稜鏃・漢式鏃は、弩機とセットになる矢につける鏃で、楽浪郡からもたらされたと考えらえる。同じく18号住居出土の鉢は、韓半島の原三国時代の土器で金海周辺のものと考えられる。それが対馬・壱岐を経て、奴国にもたらされたものが、安徳台に入ったか。同じく18号住居出土の天河石は韓半島南部で採れる。2号住居からは塞杆状土製品が出土しているが、そのガラスのものは髪飾りと考えられている。ガラス製塞杆状製品は楽浪からも出土する。楽浪-奴国-邑落、韓-奴国-邑落という流れ。一支国では遼東系土器や銅釧が出ているが、公孫氏が帯方郡まで支配していたことを受ければ、帯方郡までが遼東文化圏であり、そこから一支国にもたらされた。点と点の中継地をいかに考えるか。

木下:安徳台が栄えた理由。裂田溝ができるまでは水稲耕作で繁栄していたわけではない。安徳台地上の人は何が財産だったか、疑問。

禰冝田:葬送儀礼や副葬する意味を考える必要性。貝輪を威信財と考えるかどうか。

磯村:では本題に。遺跡は土地に付随しており、そこの人がどう守るか、どういう守り方があるか、活用の仕方があるか、またはどう知ってもらうか。そのあたり、整備を含めて市としての考えは?

岩滿:国史跡指定以前から、地元の方やボランティアの方でPR活動や整備を進めてきた。たくさんの人に来ていただく環境作りをしていく。

磯村:この遺跡はどうあるべきか?

禰冝田:安徳台遺跡には弥生時代から現代まで、原風景が残っている。歴史、文化、自然をヨコから見た時、原風景を体感してもらう。

木下:地元の方が楽しく知り、学んでもらう。安徳台遺跡と同じような遺跡で活動している方々と交流したり、そこを訪問したりするのはいかがか。

西谷:那珂川町時代に策定されたミュージアム構想をもう一度読み返す。活用については、先行例を参考にして、地域の方々に行ってもらう。那珂川市と吉野ヶ里町が繋がったように、安徳台遺跡と吉野ヶ里遺跡で、文物の相互展示行うなど。博物館・歴史資料館は必要で、安徳大塚古墳や安徳台遺跡の近くに造る必要性がある。

磯村:同種の遺跡で参照例はあるか?

禰冝田:予算が減る中で、整備の理念を考える必要がある。秋田では、子どもからお年寄りまで集まって、竪穴住居を復元した。市民・大学・市の連携。調査研究はみなさんがやったらいい。岩滿さんにアイディアをどんどん投げたらいい。市民の皆さんでハード整備からソフト整備まで行う。今日は市長がシンポジウム最後までいらっしゃる。主催者が応援団でもある。予算的には2021年度からになるかもしれないが、来年度から動く。成功事例はみなさんが作ったらいい。

磯村:一時的には成功した事例はあるが、それが持続していない。人を育てていくことが重要。地域コミュニティがどう関わるか。整備計画づくりなどワークショップでやったらいい。地域の宝をどう見せるのか、どう案内するのか。全国に誇る保存活用を。市長、決意表明を。

市長:安徳台の台地裾まで入れると約23万㎡の一山全てが文化財。時間はかかるが、活用していきたい。市民の皆さんにどう利用してもらうのか、文化財の活用を今の世代だけではなく、次世代にも重要性を伝えていけるような。

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