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令和元年度東アジア国際シンポジウム 魏志倭人伝の中の倭と韓 野良メモ


令和元年度東アジア国際シンポジウム 魏志倭人伝の中の倭と韓 野良メモ

2019年10月19日(土)に長崎県庁で開催されました、「令和元年度東アジア国際シンポジウム 魏志倭人伝の中の倭と韓」について、登壇された発表者の発表の概要と討論のメモを復習のついでに書きたいと存じます。


レジュメは後日、長崎県埋蔵文化財センターHPにて公開される予定です。

※パネルディスカッションは野良のメモに基づくものであるため、発言内容や意図が違う場合がございます。その点、ご了承ください。 〇西谷正「烏丸鮮卑東夷伝の考古学」

・『漢書』地理誌では倭人に関し19文字しか記載されていないのに対し、『三国志』魏書東夷伝には2千字足らずにわたって記述されている。魏書は北狄・東夷を叙述。 ・蛮夷のものたちが中国に患いをもたらすのは古い昔からのこと。秦・漢以来、匈奴が辺境の地に損害を与えてきた。 ・烏丸・鮮卑は元の東胡。彼らの習俗や来歴については、漢代の記録に見えるので、烏丸伝では漢末魏初以降のできごとを記録。 ・陳寿の編集方針→「以備四夷之変」 ・長城内に居住した烏丸族に「護烏丸校尉」の官職を与える。内蒙古自治区和林格爾県において、後漢末の磚室墓に「護烏桓校尉」の墨書銘。同じく烏蘭察布盟涼城県では、西晋代だが、「晋烏丸帰義候」の金印、「晋鮮卑帰義候」の金印・「晋鮮卑率善中郎将」の銀印が出土→魏代にも烏丸・鮮卑の末端組織まで統率しようとした意図があった。 ・前漢末BC108年に楽浪郡設置、後漢末204年頃に帯方郡設置。公孫氏が遼東郡から楽浪・帯方郡まで掌握。景初年間に魏が奪還。239(景初3)年に倭の女王が遣使・朝貢。魏の外交拠点は帯方郡。 ・「郡:直轄支配」と「国:間接支配」による郡国による外交戦略。

〇古澤義久「魏志倭人伝における往来関連記事と一支国」 ・魏志倭人伝は、倭の国々への里程、倭人の風俗、女王国と魏の通交を記載。 ・倭と漢の通交記事は建武中元2(57)年の倭奴国の記事。景初2(238)年(梁書倭国伝などでは、景初3(239)年)以降、数次にわたる使節相互派遣。倭と三韓については直接的な通交記事はほとんどないが、魏志倭人伝から、三韓諸国に対しても外交使節が派遣されていた。 ・原の辻の楽浪系土器:圧倒的に短頸壺(運搬具)が多い。しかし、碗や鉢類(食膳具)も相当数みられる。→限られた船内空間で重ねられる。船による運搬。旅行者の器種組成。外交使節は相手側(倭)の食器に大きく依存せず、威信を示すために、漢・魏式の食器組成で食事に臨んだ。 ・壱岐の遼東系資料:土器・銅釧。特に銅釧は遼東郡における非漢族集団のもので、これまで楽浪郡域内では見つかっていない。→遼東郡との交流。その背景は洛陽-楽浪郡間の通過地点。 ・一支国と三韓の交渉:三韓系土器・棒状鉄斧(赤井出遺跡では再加工品が出土)。鉄の交易。 ・一支国人の役割:鯨骨製紡錘車。壱岐の水人が韓半島南部から日本海沿岸の交易を担った。 ・卜骨:壱岐が九州で最も多い。航海祭祀か。←魏志倭人伝の記録は壱岐島での実際の見聞に基づく。

〇安海成「三韓時代韓半島南部と東アジア社会の変動-『三国志魏書東夷伝』韓・辰韓・弁辰条を中心に-」 ・三韓社会の成立=円形粘土帯土器とともに韓国式銅剣・多鈕粗文鏡など階層社会の面貌をみせる新たな威信財の登場。韓半島中西部地域に登場する異形青銅器の祖形=瀋陽鄭家窪子遺跡に求められる。鄭家窪子6512号墓の青銅器の組成は古朝鮮の祭器。この祭器の組み合わせは、大田槐亭洞・牙山南城里・礼山東西里で確認され、登場時点は韓国式銅剣・多鈕粗文鏡を基準とすると、鄭家窪子6512号墓より遅い段階。韓半島南部粘土帯土器文化と韓国式銅剣文化は新たな文化変動を引き起こし、青銅器文化の松菊里文化を終了させる→三韓社会の成立。 ・衛満の朝鮮攻奪に始まる準王一派の韓半島南下(BC194~180=紀元前2世紀前葉頃)、韓王と称する。韓=韓半島南部=中西部地域。銅鏡は粗文鏡→細文鏡、青銅器は実用品化。後には鉄器が現れ始める。準王の南下による文化変動=鉄器文化の初現、土着文化を破壊せず、同化していく=青銅器→鉄器に代わるが、粘土帯土器文化や韓国式銅剣文化は維持。既存文化+鉄器。三韓の統治者=辰王、準王=韓王→一定期間共存。 ・三韓文化は海路に沿って、湖西-湖南地方を経て、北部九州へ→板付Ⅱcまたは城ノ越段階から、円形粘土帯土器-韓国式銅剣-多鈕細文鏡-鉄器文化が登場するのと無関係ではなく、弥生中期社会への転換の契機となった。 ・忠州虎岩洞遺跡1号積石木棺墓から細形銅剣7本、多鈕細文鏡破鏡1点、銅斧・銅鑿・銅鉇の組み合わせが出土→馬韓の特徴的な文化様相で、韓半島南部内陸まで広がる。一方、この文化伝播経路から辰韓・弁韓に該当する嶺南海岸一帯が排除される←準王一派が保有する多鈕細文鏡と鉄器文化がみられないため。 ・紀元前1世紀前後に三韓文化の中心地は馬韓から弁・辰韓に変化。差異として、多鈕細文鏡が嶺南ではほとんど出土しない、粘土帯土器文化が日常土器文化として維持される中、新たな瓦式土器文化が展開←先住民の粘土帯土器文化圏に移住民(準王一派の移動による余波)が編入。弁・辰韓では戦国系鉄器も確認されるが、新たな漢式鉄器が現れ、漢式青銅器も登場。馬韓の三韓文化は新たな文化変化を起こせず、停滞。 ・歴谿卿(古朝鮮高位職)の南下:2000余戸を率いて辰国へ南下。紀元前2世紀後葉頃。衛満朝鮮は古朝鮮系青銅器と燕系鉄器技術を持っていて、燕系製陶術と戦国系鉄器が登場。弁・辰韓と同化していった。 ・中国系移民:秦国の賦役を避け逃亡した人々が韓国に来て、馬韓から東側境界の土地をもらった記録、辰韓人が楽浪人を「阿残」と呼んだ記録←楽浪郡の流民が南下した事実。 ・漢郡県と三韓の対外関係=①朝貢冊封関係=韓は季節ごとに朝謁。②葛藤および衝突=廉斯鑡(辰韓の右渠帥)の記事。楽浪郡は辰韓から攻撃を受けた事実。③公孫康による帯方郡の設置=在地民の反発、局所的な討伐。④魏の明帝が帯方太守劉昕と楽浪太守鮮于嗣を派遣し、韓国の臣智たちに邑君の称号と印綬を賜与したところ、韓国の臣智たちが相次いで帯方郡の崎離営を攻撃。帯方太守弓遵と楽浪太守劉茂が軍隊を率いて戦闘に参与したが、弓遵は戦死。帯方・楽浪郡の勝利←『三国史記』百済本紀古尓王13(246)年記事。漢郡県は数次の韓国との戦闘で苦労⇔倭は漢郡県と円満な関係を維持。 ・勒島の国際交易:弥生時代中期、積極的な鉄交易の痕跡は見つけられない。「国出鉄」記事に登場する2郡は帯方と楽浪で、3世紀以降→この時点を前後して、日本産と中国産の威信財が同時に確認される唯一の地域は金海=「国出鉄」。

〇パネルディスカッション 司会:中村俊介、パネラー:発表者 中村:魏志倭人伝の倭と韓の交流の問題。原の辻やカラカミ、車出の関係は? 西谷:壱岐では弥生時代の遺跡が60ヶ所確認され、原の辻は内部構造が分かるダントツの遺跡で、一支国の国邑・王都。壱岐島内で集落はピラミッド状に、中小様々な集落・邑落があり、表情・顔がある。農村・漁村・工業村で構成される。 中村:カラカミ遺跡は鉄器の鍛冶が注目される。その集落の性格は? 古澤:原の辻は平野と舌状台地から構成され、農業生産主体。カラカミは当時の湾から標高80mほどの地点で平野に恵まれない。中国系遺物は原の辻が多く、カラカミは少ない。カラカミでは周堤付鍛冶炉がでたり、ベンガラの生産も行っている。テクノポリス・工業地域。土器から見ると、カラカミのものは原の辻と一致しない。系統が違う。 中村:かつては主従関係とも言われてましたが、今は役割分担? 古澤:壱岐会場である松見さんの発表では、原の辻-伊都国、カラカミ-奴国という脈絡。対外では差はない。オール壱岐。 中村:敵対関係ではない? 古澤:敵対関係ではない。 中村:原の辻のような集落は韓国に? 安:勒島。中国系遺物と須玖式土器が出土し、弥生人が暮らしていた。さらに須玖式土器が変化した弥生系土器もあり、それは勒島で変化した。 中村:重要な海洋の島。同じ倭人伝にみる対馬とは遺跡の内容が違う。どうしてこれほど違うのか? 西谷:三根山辺地区で集落が発見され、対馬の拠点集落と考えられる。対馬では墓はたくさん見つかっている。後世に82浦あると言われたように、壱岐とは生業が違う。浦は限られた場所で、現在もそこに集落があるので、その下に弥生時代の集落がある可能性がある。対馬は韓国との関係。副葬品は韓半島のものが多い。下ガヤノキでは前漢鏡が出ているので、国はあった。 中村:対馬は特殊な青銅器が出る。異形青銅器。それは韓国との関係? 安:青銅器を考える上で、馬韓と弁辰は分けて考える必要がある。馬韓の異形青銅器は青銅器開始期に見られるもので、対馬とは年代差があるので、関係ない。弁辰の異形青銅器には前期瓦質土器の巾着形袋壺が見られる。日本ではあまり見ない。そのあたり、西谷さんや古澤さんのご意見を。 西谷:そのことについては難しい。 古澤:巾着形袋壺はジュモンホと呼ばれ、お祀りに使われる。対馬で出ないと言われてますが、実はあります。戦前の調査のシラタケや下ガヤノキにあるので、対馬まではある。対馬の異形青銅器に半球形のものがありますが、ソンサン貝塚やフェヒョンニ貝塚などから出ており、韓半島東南部・弁辰地域と関連。 中村:奴国産と言われる銅矛は、対馬では100本を超えると言われ、お墓に副葬される。それはなぜ? 古澤:銅矛は壱岐ではあまりでない。4本くらいか。一般的には倭と韓の境界でのまつりごとに使われたとされる。壱岐では天ヶ原せじょうのかみ、で出ている。生産地は奴国と考えられており、九州本島の勢力が関与。 中村:西谷さんは? 西谷:塔ノ首で出てますね。あと神社に伝世されている。それらは航海祭祀に使われ、浦々で行われ、その数ある。壱岐の天ヶ原は波打ち際で、対馬に渡る際の祭祀。祭祀内容はそれぞれに違う可能性もある。 中村:航海祭祀や結界といった役割。半島の鉄に関して、鉄を中心とした交流で、倭からどういうものが交易され、どういう手続きで? 古澤:交易はあったのは確か。流通に関して、倭人伝や韓伝では市の存在が挙げられる。いろんな市=交易する場があった。鉄の対価として、金海では今では平野が広がっているが、当時は海で、お米はあまりとれなかった。なので、東潮さんはお米を鉄の対価と考えられている。その他にも、木材や海産物が挙げられるが、一番はお米だと思う。 西谷:塩の問題がある。半島の塩については分かっていない。15世紀に対馬の生業として、塩・海産・交易が挙げられている。塩は大きい。また生口という特殊技能を持った人々が対価だったかもしれない。そういうものは証拠が残らない。 中村:岩塩に高い価値があったように、塩にも。また人・技術者にも。安さんは? 安:何かを交換していたと思うが、特産品や奴隷、革かもしれない。 中村:マーケット・市ではどのような経済が?権=さおばかりの秤を使った計算システムや、そこで文字が使われていたか? 西谷:楽浪では文字資料がかなり出ている。そこが窓口であったので、文字が入っていて当然。詔書など外交的な文字使用。硯に関しては、伊都国の三雲・井原遺跡群で楽浪人(役人)が滞在したと思われる場所から硯が出た。文字は外交的に必要性があった。経済的にもありうる。権も実用的な秤。渡来系土器が出土しているところから出たものも。 中村:茶戸里の筆を含めて。 安:韓半島で文字を考える際に、直接的には、木簡・竹簡や金石文字があり、それらは三国時代以降。間接的には、硯があるが、それも三国時代以降。ただし筆は茶戸里の例があり、古くなる。あと削刀は、漢四郡設置以降に見られる。 中村:交易活動にも使われていたか? 安:外交や交易以前に、租税だと思う。 古澤:魏志倭人伝にも租税の記述がある。 中村:古澤さんは? 古澤:それらを使っていたとは思いますが、経済活動・交易に文字は疑問。 中村:では物々交換? 古澤:ある特定のものが貨幣。 中村:貨幣の代わりになるものは鉄? 古澤:弁辰では。倭では分からない。後漢でも五銖銭がありますが、それより物々交換が多かった。青銅権について、中国では鉄製。なので、実用品かどうなのか? 中村:滋賀では土製のおもりや環状のおもりも出ている。中国と倭に関して、遼東・山東系の土器や銅釧がある。それらは交易品?遣いが持ってきた?倭人が持ってきた? 古澤:交易なら、楽浪・帯方が近い。なので、それより遠い遼東と交易していたとは考えにくい。遼東-楽浪-倭という流れか。ただ遼東の非漢族銅釧があり、倭人が洛陽に行くために、遼東を通過するということで入ったか。 西谷:公孫氏が帯方まで支配していたことを踏まえれば、遼東-倭にこだわらず、帯方郡を介したありかたが考えられる。 古澤:非漢族銅釧をどう考えるか。 西谷:遼東太守の持ち物ではない。下々の人の所有品。 中村:卜骨について、農耕祭祀に使われたり、今回出た航海祭祀に使われたり。持衰にも海人。壱岐の人が持衰で水先案内人か? 西谷:倭-帯方-魏を考える際に、出航地を考える必要がある。私は末盧と考え、一支・対馬に行く。外港としての松浦。逆は半島を水行し、狗邪国から渡海する。 中村:持衰は末盧の人? 西谷:伊都の人かもしれない。古墳時代前期後半から利用される沖ノ島ルートの、沖ノ島-大島-九州本土という中で、大島の中津宮の背後には古代の祭祀遺跡があり、そこには楽浪系土器もある。沖ノ島にも無文土器や粘土帯土器があるので、卑弥呼の時代にはもうそのルートが機能しているのではないか?一方、半島の竹幕洞遺跡からは近畿製の滑石製品が出ているが、3世紀の土器も出ている。 中村:倭人伝の時代の祭祀遺跡は韓半島では? 安:その前に、鉄の対価のお話に戻りますが、有機物を対価として挙げましたが、三韓時代には青銅器は段々消える。一方、倭では大型化する。なので、対価として日本製青銅器が挙げられるかもしれない。お話は戻り、竹幕洞が有名ですが、済州のサイチコウという中国の銅銭埋納遺構があるところがあります。内陸では、東夷伝にソトンという祭祀に使われる場が記載されており、海岸部でもあるか。 中村:倭人伝に書かれていない国が長崎本土にもあるか? 西谷:2つくらいはある。後の郡が1つの国。郡があるところには国がある。漢書の100と律令の600の間をとって2~300あったと言っている。島原に1つ。景華園では青銅器が出土。彼杵郡に1つ。 中村:邪馬台国連合の1つだった? 西谷:可能性の1つとしてはある。 中村:韓伝の馬韓・弁辰には70くらい国がある。それらは倭と同じような国か? 安:見つかっている拠点集落は24~25。それとどの国が対応するか。 中村:拠点集落と国がどう対応するか、今後の課題です。

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